北海道大学招聘客員教授、名誉教授 五十嵐靖之
10月に敬愛する梅田眞郷先生より,新しく脂質生化学会のホームページを立ち上げて,そのなかに「脂質の窓」というコーナーを設けたのでぜひ書いてほしいという執筆の依頼を受けた。何を書くの?「なんでもいい、先生のやっている短歌やパンセのブログでもいいですよ」と言われ気が少し楽になり、やっと書いてみる気になった。あまりきちんとしたものでなく、まあ「つぶやき」みたいなものでよいということと理解した。ただし「きれい」とか「うまい」とかつぶやくだけではなく少しは意味のありそうな脂質、あるいは脂質研究に関連した「つぶやき」が求められているようだ。愚痴や不満、あるいは希望、期待でも、かけ声でもよさそうだ。
世の中では終活という活動が盛んらしいが,自分は今、来年春で研究室を閉じる研究終活のさなかにある。日本、アメリカ、そして北大での正規教授として続けてきた脂質研究を、更に13年間、特任教授,その後招聘客員教授として研究室を引き継ぎ、この間スフィンゴ脂質の基礎的研究から最近の創薬,機能性食品開発の応用研究を続けてきたが、来年喜寿を迎えいよいよ終りにすることにした。そしてこの7年間、研究室での最後の研究活動、研究管理と並行しながら、AMED—CREST/PRIMEの「画期的医薬品等の創出を目指す脂質の生理活性と機能の解明」という2015年から8年間続くプロジェクト(AMED脂質)の研究副統括として統括の横山信治先生とともに務めさせていただいた。この間自分達より遥かに若いしかも優れた研究者達の広い分野の研究に、老骨、いや、いや老脳にむち打って、アップアップではあったが真剣に向き合うことができ、個人としても極めて貴重な経験を積ませていただいた。研究の終活を迎えようとしている一老研究者には思いの外刺激的でしかも楽しい時間でもあった。
さて、CRESTの13課題は,それぞれに脂質の研究の実績に基づいてそれを更に発展させようとする課題で、マスイメージング、一分子観察など脂質分子を直接のターゲットにしているもの,リン脂質や酸化リン脂質、スフィンゴ脂質、糖脂質の生理作用や、生理活性脂質の受容体や脂質トランスポーターや脂質輸送蛋白の機能解明を目指し、それらを様々な病態の解明とその治療法に近づける基盤研究が主で、多くの優れた成果を生み出すことができたと考えている。一方、若手研究者が個人で行うPRIMEもそれぞれ将来の発展につながる優れた成果が得られた。その28課題をとってみると、約半数は脂質研究の外からの応募であり臨床を含めて脂質研究に新しい風を入れようとする研究課題が多かった。これらの採用研究課題で一つ感じたことがある。それはかなりの数の研究がじつは脂質を直に扱っているのではなく脂質に関連した分子、遺伝子、タンパク質を解析対象にしたものが圧倒的に多いのに気づく。それは脂質代謝酵素であったり、脂質の結合蛋白や受容体であったり、またその役割を明らかにするのに遺伝子を壊したり導入したりする実験手法をとることが多いので、むしろ当然のことともいえる。またイン・シリコのデータ取得をめざすものもある。そうした新しい技術導入によって脂質研究が進化してきた訳だし、他分野の研究と脂質研究の融合を目指し、脂質研究を広げていく推進力をもたらしているのも確かだ。まして今回のAMED脂質の目標が「画期的医薬品等の創出を目指す」となっていたので尚更でもあろう。
ただ、ここで一つだけ老人の冷や水的な「つぶやき」を許してもらいたい。もちろん今回AMEDで採択された若手研究者に限ったことではなくて、全体として若手研究者の脂質研究で、一度も脂質という分子に触れずに研究が進んでいく仕事が増えていることである。つまり脂質を直にいじらない脂質研究である。脂質の土の匂いがしない。長い間、脂質は泥臭い研究と言われて自分もそう思ってきたが、今の研究はその土の匂いがほとんどしない研究になってきているものが多い。これでいいのだろうかと、それに何かしらもの足らなさを感じてしまうのは、やはり老研究者の時代遅れの「ぼやき」であるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、脂質研究の出発点には、脂質の他の生命分子、核酸や蛋白、糖とは違ってどんな物性、特性のために生命現象に不可欠なのか、その果たしている独自の役割はなんなのかを絶えず見据えて、そして、それを理解するために一つ一つの性質を異にする脂質分子やそのドメイン集合体が、どんな顔や姿をしていて、どんな性格や癖を持っているのかを、脂質分子を直に捕まえて、いじったり、なめたり噛んだり,観察したりしながら肌を通して付き合うことが根本になければ分からないことがあるのではないか、脂質研究の「泥臭さ」がその真骨頂として大切なはずである。そうした視点が現在の脂質研究に薄れつつあるではと気になるのだ。
若い時の自分自身の脂質研究へのきっかけを振り返ってみても、脂質に関する素朴な疑問が契機となって、それに興味を抱き研究が始まっているのに気がつくことがある。そういうことが出来たおおらかな時代だったと言えないこともないが。一つはHanahanの法則、リン脂質の脂肪酸の一位が飽和で2位が不飽和であるということの不思議さに取り付かれたことがある。なぜ逆だったり同じだったりしないのであろうか?核酸塩基のA=T、G=CとなっているというChargaffの法則に基づいて生物学の革命をもたらしたワトソン・クリックの二重螺旋の発見に繋がったように、そこに目に見えない生体膜における脂質の織りなす微細構造に必要な何かがあるのでは?その幻想にはっきりした答えはもちろん見つかっていない。ただ、その頃脂質研究を始めたばかりの自分が当時Hokin先生の提唱したPI代謝回転という現象に興味を抱きとびついたのも、その疑問が出発点なっていたと思う。それはやがて、PI(PIP2)代謝回転で作られたDGの2位のアラキドン酸代謝や分解産物による脂質情報伝達機構に興味を抱き、やがてアメリカに渡ってスフィンゴ脂質の分解代謝産物であるS1Pの生理活性の研究、帰国後のS1Pシグナリング機構やセラミドの機能研究、更にスフィンゴ脂質やコレステロールの局在する膜ドメインの研究につながっていったと言える。
脂質研究の初期にもう一つとらわれたことがあった。アドレン酸と命名された脂肪酸(C22:4)が副腎皮質(Adrenal Cortex)になぜ極端に多く存在しているのか?なぜたくさんあるリン脂質脂肪酸のある種のものだけがある組織、部位に局在している理由は何なのか?偶然?その分子はもしかしたら副腎皮質のステロイドホルモン合成に関わっているのだろうか?1980年代、まだ質量分析法が確立していない時代にガスクロマトグラフィー法で刺激後の含量の変化を調べた研究をして数編の論文を発表したりした。20:4ではなく22:4からやはりプロスタグランジン様の活性分子が作られるのではないかなど、いろいろ考えたが、ポスドクの立場でその追求は実現しなかった。現在、研究室では自分の最後の仕事として植物由来のスフィンゴ糖脂質の皮膚機能増進や認知症予防効果の仕事に携わっているが、その研究過程でラボの研究員の三上大輔博士が、植物に特徴的なスフィンガジエニンが体内吸収後、S1Pリアーゼの作用でC16:1,n-10(サピエン酸)に変換されることを見つけた。人(ホモ・サピエンス)にしかその存在が知られていないからサピエン酸と名付けられているのだが、この分子がなぜ植物スフィンゴ糖脂質の吸収によって動物で作られ、何の役割を果たしているのかを考えるとワクワクしてくる。なにかあるに違いないと。しかしそれに取り組む時間がもう自分には残されていないし、それは後進の若い人に期待したい。
昨年亡くなられた私の恩師である箱守仙一郎先生は「真の研究のオリジナリティとは、誰もが顧みない課題にとりくんで皆を振り向かせせること」だと常日頃言われていた。自分自身が考え、見つけた現象やものを大切にし、時代の流行や研究資金のとりやすさだけを追ってはいけないという戒めだったと思う。もしもう一度初心に還って脂質研究ができたら、あたりまえすぎて誰もが考えつかなかったような、しかも根源的ともいえる課題を見つけて「泥臭い」研究に取り組んでみたいと思うのだが、ああ残念、時間切れ。これもやはり若い人々に期待するしか道はなさそうだ。